神隠し
「返せやぃ、返せやぃ」 暗い森に、響く声。 何人かの男たちが松明を手に叫んでいる。 「返せやぃ、返せやぃ」 恐怖に上ずった声。 男たちもしっかりと手をつなぎ合って。 森の奥へと入っていく。 「……ねェ母さん」 「なぁに?」 勤めて明るく振舞おうとしている母の声は、然しどこか暗い。 背を向けていた母に声をかけると、泣いていたのか、服の袖で目元を拭って此方を向いた。 「僕も行って良い?」 首を傾げてそう聞くと、母は驚いた風に首を横に振った。 「駄目よ、母さんを心配させないでおくれ」 「でも」 「皆に任せておけば大丈夫。きっと戻ってくるわ」 粗末な家の中に、普段は焚かない火が赤々と燃える。 それが壁を不規則に照らし出して、何とも恐怖であった。 「大丈夫、父さんもいるものね」 母は自分にそう言い聞かせるように呟いた。 大丈夫、大丈夫と。 「返せやぃ、返せやぃ」 男たちの声が段々遠ざかって行く。 きっと、あの松の木の向こうまで行ったのだろう。 そう思いながら、少年はふと母を見た。 疲労のせいか、ちろちろと火影が舐める母の顔は普段より老けて見える。 「母さん」 名を呼んでも、寝入ってしまっているのかぴくりとも動かない。 縫い物をしていた手をそのままに、器用に壁に背を預けて眠っている。 「……。」 少年は、羽織るものも持たずに家を飛び出した。 返せ、返せという声が聞こえなくなるくらいの森の奥へと、少年は息もつかずに走った。 そして男たちの持つ松明の光すら見えなくなった頃。 「はぁ……」 息を乱して少年は立ち止まった。 大きく肩を上下させて、空気を求める。 「はぁ……ふぅ」 しばしそうして、息が落ち着いたところでやっと辺りを見回した。 真っ暗な森。ケキョケキョケキョと何かが鳴く声が聞こえる。 それでも少年は怖くはなかった。 此処には大切な弟がいるのだ。 「おーィ、おーィ」 いつも弟と遊んでいる時と同じように、少し声の調子を変えて呼んでみる。 神に獲られてしまった等と、信じるものか。 「おーィ、おーィ」 さく、さくと素足が乾いた落ち葉を踏む音が辺りに響く。 耳に聞こえるのはその音と、自分の声と、よく分からない生き物の鳴き声だけであった。 ……足が痛い。 ちくちくという刺すような痛みに顔をしかめて少年は自分の足を見る。 よくよく見ると、草で切ったのだろう、小さな傷から血が滲んでいた。 「……。」 服の袖を引っ張って、それで血を拭った。 袖に赤い染みがついた。後で母さんに怒られるかもしれない。 でもまァ、いいや。 「おーィ、おーィ」 そして少年は気付いた。 大きな松の木の下。蹲って。 「………殊祠?」 少年が思っていたほど此処は奥深いところではなかったのだ。 男たちは松の木の下まで行ったわけではない。 子供の足で村から歩いて数分程度の場所である。 大きな松があるお陰で開けているこの場所を、月光が明るく照らす。 弟の長い銀髪が、月に照らされて淡く光っているように見える。 そっと近付くと、微かに身動ぎしたのが分かった。 「兄さん」 立てた膝に顔を埋めたまま。 少年は溜息をついて弟の横に座った。 「母さん、心配してたよ」 「うん」 「父さんも、探してたぞ」 「うん」 「……馬鹿」 そう言って、泣き出したのは二人同時だった。 |