2.
「ねぇ、それって、美味しいものなの?」
手に持った赤い塊――上界では林檎と呼ばれているらしい――を丸のままかじっているユリクに、僕は話し掛けた。
窓の外を眺めるために僕に背を向けて林檎をかじっていたユリクは、首だけを僕の方に向ける。
「不味い物を食べる気にはなれない、かな」
そう言いながら、手に持っていたものを窓の外に投げ捨て、テーブルの上に山積みにしてある林檎を手に取る。
すでに食べれる部分を食べて骨みたいになったそれは、窓の外に小さな山を作っている。その種はいつか芽を出し、この下界にも赤い塊を産み落とすのだろう。
「ふぅん……」
「クロム、食べてみる?」
そう言って林檎を差し出す彼に、僕はただ微苦笑しながら頭を横に振った。
一度、上界の食べ物を口にした事があるが、ひどい腹痛と吐き気に襲われて、もう懲りていた。
「不便だね、下界に住むのは」
そう呟いたユリクの言葉に、僕は苦笑いする事しか出来なかった。
上界と下界。正式には天界と地界なんだけれど、そう言う風に呼ぶ人は今ではもうほとんどいない。
戦争や天変地異によって二つに分断された大地。
怪異に襲われる天界に残って、自然と共に生きる事を選んだのが天界人、自然と照りつける太陽に嫌気がさして、それを捨てる事を選んだのが地界人だった。
「髪と目の色以外、ほとんど同じなのにな」
そう言いながら、ユリクはまた、窓の外に視線を向ける。
彼が下界に来て、もう三年が経つ。それでもまだ、弱々しく白に近い色をした草しか生えない大地が珍しいのだろうか。
下界には、太陽が無い。
それでいて、辺りがいつも夜明けのような明るさを保っているのは、天井や岩にびっしりと群生した発光植物のお陰だった。
ぼんやりと辺りを照らすそれも、一本一本の発光力は小さいけれど、沢山固まって生えているとそれなりの明るさを持つ。
天界人には薄暗いくらいの明かりでも、僕達地界人はそれ以上強い光を、火でしか見た事が無いから、十分満足している。
「ごちそうさま」
「……何?」
上界の言葉だろうか。辛うじて聞き取った言葉は意味を持たなかった。
ユリクは苦笑して教えてくれた。
「美味しい物をありがとう、って意味かなぁ」
テーブルの上においてあった林檎は、最初の半分くらいにまで数が減っている。
減った分、窓の外には種と芯が積まれているんだろう。そして今日も蟻が嬉しそうにその上を歩くんだ。
その原因の彼は、食べ飽きた林檎の代わりにか、水の入ったコップを持ってぼんやりと窓の外を眺めている。
喉が渇いたら、水を飲む。
天の民にとって当たり前のことらしいけれど、地の民にとっては変なことだ。
僕はまだ喉が渇いたことがない。水は、飲むどころか、触れることもできない。危険だと思われているからだ。
どうして危険なのか、それは誰一人として説明できないというのに。もしかすると、説明ができないから危険だなんて思われてるのかもしれない。
「……上界って、どんな所なの?」
「んー?……太陽が周りを照らす、砂だらけの所。下界みたいな建物がたくさんあって……人で賑わってる所」
そう言って、ユリクは少し俯いた。
どうしたのだろう、そう思ったけれど銀の髪に遮られて、ユリクの横顔は見えなかった。
「あとは……雨、雨がよく降るよ」
「……あめ?何それ」
「空から水が降ってくる、天の恵みってやつかな。寒いとその水が凍って雪になるんだよ」
「ああ、それのことか」
それなら大分昔に誰かに教わった。その時にテレビの画面で見た雨は、光に反射してとても綺麗に見えた。
作り物の箱みたいな画面なんかじゃない、自分の目で見る雨や雪は、どんなに綺麗だろう。
「雨が降ってる間は、濡れないように建物の下に隠れるんだよ。皆でね」
そう、楽しそうに色々説明してくれた。
僕には分からないことをたくさん言うけれど、上界の話をしているときのユリクはいつも楽しそうだ。
「でもやっぱ変だよ。ここじゃ食べ物が育たないなんて」
そう言いながら、冷えた水を口に運ぶ。
食べ物も、飲む物でさえも無い下界で、一体ユリクはどうやって食べ物を手に入れているんだろう。
毎日のように小さな箱が家に届くけれど、僕はそれを送って来る人を知らない。ユリクの友達だろうか。
「ユリクみたいに食べたり飲んだりしてたら死ぬってさ」
「食べたり飲んだりしなきゃ死ぬよ。それが間違ってるんだ」
間違ってるって言っても仕方がない。僕達がどこにいるかは、僕達が生まれるずっとずっと前の人達が決めたんだ。
僕の祖先は地下都市を創って地に住んだ。ユリクの祖先は天に残って都市を築いた。
それだけの違いではないか。
僕がそう思っていると、ユリクは近くにあった箱を行儀悪く足で近くに寄せる。
軽くかがんでその中を特に興味もなさそうに漁っていた彼は、何かに気づいてはたと手を止めた。
「……こんなものが……」
「どうしたの?」
顔を上げたユリクの手には、いつもは入っていない小さな包みがひとつ。
彼の片手に収まってしまうほどの、小さくて白い紙袋。
「ユリク……何?それ」
「砂糖。植物から取れるんだけど、甘いんだよ」
僕には分からない説明をするユリクは、凄く嬉しそうな顔だ。
いそいそとコップに水を入れて、その中に包みの中の物を入れる。
……砂を白くしたみたいなものだ。
「ねぇ、甘いって、どんな感じ?」
「うーん、暖かいような感じかな。辛いのを痛いって表現するなら、優しいって言う感じ」
「へぇ……」
言いながら嬉しそうに水を飲む。
何かを小声で呟きながら、また包みの中の”砂糖”をコップの中に入れた。
「懐かしいなぁ……こんな上等なもの、上じゃ飲めなかったよ」
「そうなの?」
「砂糖って高いからね。俺は子供の時に少し食べたことがあるだけかなぁ」
そう言っているけど、多分それは半分嘘だろう。
高い高いといっている割には結構その”高い砂糖”をたくさんコップの中に入れている。
そうやって僕の方を見ずに、ユリクはただ窓の外を眺める。ここの風景が気に入ったんだろうか。
手に持ったコップには、もう水は入っていない。いつもよりも飲む速度が速い。
「楽しい所だよ、上界は。本当にね」
「……じゃあ、何でユリクは地へ来たの?」
その質問には答えず、ユリクは少し下を向いた。
何か悪いことを言ってしまったかと、僕が考えあぐねていると、ユリクはただぶんぶんと頭を横に振った。
少し沈黙を置いて、彼はコップを置いてわざとらしくあくびをして、こう言った。
「そろそろ寝るよ……昨日、眠れなかったんだ」
言い終わるか終わらないかのうちに、ユリクは隣の部屋へと消えた。
一拍置いてボフッというベッドに突っ込む鈍い音がした。
でもきっと、眠ってはいないだろう。下界に時間は無いけれど、太陽は、上界で言う「昼」の位置にいるんだから。
クロムは椅子に腰掛けたまま考えていた。
上界の事を。ユリクが楽しそうに語る、美しいであろう世界。
どうして彼はさっき機嫌が悪くなったのだろう。いくら考えてもそれは分からなかった。
***
「……どうしたの?」
簡素なベッドの上で物思いに耽っているユリクに、僕は躊躇いながら声を掛けた。
あれからずっと、ユリクは部屋に篭りっきりだった。もう太陽は「夜」の位置に居座っているっていうのに。
「色々、ね。考えてたんだ……」
窓の外に注がれている視線が、僕のほうに向く事は無い。ずっと、いつでも明るさの変わらない世界を眺めている。
僕よりも少し色の黒い、日に焼けた顔からは何の表情も読み取れなかった。
けれど、震えてでもいるのか、手に握られたコップに浮かんだ氷がカチカチと音を立てている。
「太陽の距離と月の距離。季節によって変わる星座について。そういえば好きだったなぁって思って」
「ほし?」
「太陽が沈んで夜になると、見られるんだ。空に宝石が張り付いてるみたいに見える。月を守ってるみたいにも見える」
棚の上にコップを置いて、ユリクは視線を僕に向けた。
無表情だと思っていた彼は、驚きと喜びと懐かしさの混じったような、そんな表情をしていた。けど少し悲しんでいるように見える。
たくさんの感情が入り混じると、哀しそうに見えてしまうんだなと、僕は思った。
「思い出すと色々、辛いんだよ。……まだ、時間が経ってなさすぎるんだ」
「天界の事?」
「そう。……まだ太陽を忘れるには、時間が足りないんだ」
少し言葉を詰まらせたが、それでも彼はそのまま離し続ける。
「上界は、きっともう何も無いんだ。……建物も、人も、木でさえも。全て雨と太陽と砂が壊していった」
「雨が?どうして?あんなに綺麗なのに」
「綺麗な物にはトゲがあるって言う」
いつも適切な答えを返す彼とは違う、少しずれた答え。何かを僕に伝えたいんだろうけれど、僕には分からない。
少し自嘲じみた笑みを浮かべて、ユリクは立ち上がる。静かな空間に、古いベッドがギシギシと軋む音が響いた。
「全て、上界にあるものは全て壊された。だから……もう失う物なんて無いと思って地に降りてきたんだ」
無造作に、壁に掛けてあった灰色に近い色をした上着を羽織って、黒っぽい帽子を手に取る。
背の低い棚を引っ掻き回して、彼がここに来た時に履いていた丈夫そうな靴を取り出した。
「でも……太陽を失った。月を失った。星でさえも、失ってしまったんだ」
どう言えばいいか、言葉に迷って僕は黙り込んだ。
ユリクは丁度、この家に来たときと同じ格好をしている。いぶかしむ様な僕の顔に気付いたのか、彼は微苦笑しながら言った。
「上にね、戻ろうと思って。一分でも良いから、戻りたいんだ」
そう言ったユリクの顔からは、何の感情も読み取れなかった。
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