3.


上界と下界が、繋がっている唯一の場所。それは、僕の家から少し歩いた所にある公園の隅にある古びたトンネルだった。
子供がかくれんぼをするのに丁度よさそうな、そんな何の変哲もないトンネル。それが天界――ユリクの故郷であり、僕の知らない場所――へと続く道だった。

少し湿っぽいトンネルを通って、完全に閉鎖されている硬い扉を力任せにこじ開けた。
ギィっという鉄と鉄の擦れ合う音がして、スリットになった所から細く光が差し込む。それがだんだんと大きくなって、完全に開いた。
下界よりも少し濁った空気を思い切り吸い込んでしまって、少しむせた。

眩しさに目を細めて見上げると、青。何処までも広く広く、果てなく続く青。
その空の青を見ると、他のどの色も青だと呼べなくなってしまいそうだった。

「綺麗……」

思わずそう呟いた僕に、ユリクが苦笑する。

「この世の中で、綺麗じゃないものなんて、無いよ」

心からのその言葉。けれど、この天界には何も無い。
綺麗だと思うものも、思われるものも。何もかも、全てが雨に洗い流されたかのような。
ただ何処までも続く青い空と白い地面。廃墟とは思えないほどの美しさ。

「ここに……あったのになぁ」

小さく呟いた言葉は、一体誰に対して言ったんだろう。
僕は見慣れないこの場所にただ辟易するだけだった。建物と人と薄い色の植物が狭い所に詰まっている地界では考えられない、異常な広さ。
そして何もない、だだっ広いこの世界。どこまで歩けば何が見えるのか、想像もつかなかった。

「酸性雨、って知ってる?」
「……さんせい……う?」

聞きなれない言葉を、僕は鸚鵡返しに聞き返した。

「酸性の雨でね、木も建物も像も……何でも溶かすんだ」
「……溶かす……って……」
「俺たち天の民が勝手しすぎたから。空が怒って、何もかもを溶かす物を地上に落としたんだ」

ユリクの言葉は、簡単に僕の頭には入ってこなかった。それは難解なパズルのように僕の頭の中に広がって、与えられた場所につく事も無く彷徨っている。
難しい言葉は使ってないはずなのに、驚きと悲しみが入り込んだ頭に、言葉が入ってくる隙間は無かった。

「長い長い時間を掛けて、この空と海が創ってきた物を、俺たちは一瞬で壊したんだ」

輪のように、始まっては終わり、繰り返される時間。けれども、もう二度と、同じ場所に戻る事は出来ない。
僕やユリクのような一介の人間には想像もつかないほどの広大な時間を、この空は生きてきたんだ。

「そして何もかも、失ったんだ」

空の下で生活する人間達も、鳥も獣も、草木でさえも。全ての物を自分がもたらした物で壊していったんだ。
それを思うと、不思議と僕の瞳に涙が溢れた。
哀しみからでも、悼みからでもない。それを知っていてなお、青く青く輝き続ける空が、あまりにも綺麗だから。

「俺たちは、気付くべきだったんだ……樹が、鳥が、土が……目に見える全てが、悲鳴を上げていたのに」

ゆっくりと辺りを見回して、過ぎ去った時間を他人の物のように、彼は語る。
何も無い世界。ここには昔、何があったんだろう。

「動植物が居なくなったら次は俺達なんだ。……分かってた奴は歯痒かっただろうな」
「何で……こんなになるまで、分からない人がいたの?」
「物を利用する事しか知らない盲目的な馬鹿が多かったんだよ。俺もそうなんだろうけど」

自嘲ぎみに笑うユリクは、僕とあまり変わらない歳のはずなのに、ひどく老けて見えた。
こんな事を知らずにぬくぬくと暮らしてきた僕と、地上の限界を知った彼との違いだろうか。

遠くで、ごろごろと鈍い音が響く。
まるで小さな迷路の中で、転がる大きな岩に追いかけられているかのような錯覚。
……馬鹿馬鹿しくなった。色んな物に、嫌気がさした。

「……クロム、濡れてるよ」

ユリクにそう言われて始めて気が付いた。
自分が濡れていることに。

雨が、降っているのだ。さっきから寒いのはそのせいみたいだった。
あれだけ危険だ危険だと言われていた水に触れたのに、僕はどうもなかった。
水は毒薬じゃない。劇薬でもない。

ずっと見たいと思っていた雨なのに……灰色の、水が降ってくる……怖いと、思った。
気が付けば目の前のユリクは灰色になっていた。
服も、腕も、みんな濡れていて、いつもさらさらな髪は本で見た川のように顔に張り付いていた。

僕がショックを受けて立っている横で、ドサっと言う音がした。
ユリクが膝を突いた。下を向いていて表情は分からなかったけど、泣いているようだった。
肩が小刻みに震えている。まるで親を失った子供のような、そんな弱さが見える。確かに彼は親を失ったんだろうけれど。

「ここは……死んだんだ。太陽も星も皆……そしてその時に、俺も死んだんだ」

言っていることはよく分からなかったけれど、その声に狂気の色はなかった。

「ここに……あったのに……」

慈しむようにして地面に触れる。
今は無いそこにあったなにかを懐かしむかのように。

多分ここは、僕が来てはいけない所だったんだと思う。
僕は地の民だから、天を失ったユリクの気持ちは少ししか分からない。

きっと、僕は大切なものを失うまでこの悲しみは分からないんだ。
そして、失った後に僕もああやって泣くんだ………

天が死んだときに、ユリクも死んだ。
全ての記憶が、思い出の場所が、親しかった人が、全部天と共に滅んでいったんだ。

ユリクの言葉が、少し分かった気がした。








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