3.

ふと、目じりに熱いものを感じて、彼は目を覚ました。
夜も深い時間、勢い良く半身を起こした少年の頬に、何かが一筋、流れた。
渦巻くのは悲しみでも悼みでもない。ただ行き場の無い怒りだけだった。
まだ瞼の裏に残る白は、少年にとって疎ましいものだった。それでも、白は記憶に焼きついて離れない。

「……また」

夢。夢だと思いたい過去だった。

一度頭を振って思考から忌まわしい記憶を追い出して、はたと自分の手に目を止める。
無意識のうちに強く掴んでいた、布団代わりの上着。力を入れすぎて、指の先が白くなっている。
寸刻置いて、口元に微苦笑がひらめいた。
……今だ、忘れられないでいる。
自分を、世界を、全てのものを罵倒したい衝動に駆られながら、少年は頭を巡らせた。

夢を反転したような、黒い世界。
昼間、周りには町一つ無い細い道を照らし上げていた太陽は、まだ地の下で眠っている。
少しの光も、音でさえも無い、飲み込まれてしまいそうな闇。自分の姿さえ、闇に隠されて判然としない。
耳をすませば、何かが聞こえてきそうな気もするが、何も聞こえてこない。
「人間の耳は静寂を聞き取ることができるほど精密にはできていない」と言ったのは誰だっただろうか?

「……馬鹿みたい」

ぼそりと呟いて、今度はゆっくりと背を地に付ける。
組んだ手の上に頭を置いて、暗い空を辛うじて照らす星に目を向ける。
月は、どこでサボっているのか、その日は見ることが出来なかった。

「次の町で……見つかるといいな……」

溜息と共に小さく独りごちて、目を閉じる。星の薄明かりが消え、視界が真っ黒になった。
忌々しい夢は、もう思考から追い出していた。
……明日、探し物が見つからなければ。
資金も底を付く。旅にも飽いた。見つからなければどうしようかと、もう数えることも忘れるくらい繰り返した疑問を巡らせた。
七年間続けてきた旅。訪れた町は百以上。
……もう、終わらせたい。



***



「変わった町……」

朝一番で町の門をくぐった少年は、入って早々感嘆の声を上げた。
見た感じは、簡素でさっぱりとした、小奇麗な町。庶民の、馴染み易い雰囲気のある町だった。
しかしその町は、家も、店も、人々の服も、同じ物に統一されてはいなかった。

瓦、煉瓦、藁葺き屋根。洋服、着物、民族衣装。
和洋折衷とは言い難い、あまりにも色々な物が混ざりすぎた町だった。
町を外から眺める分には雰囲気の良い――良すぎる、しかし気付いてみれば異質な、ここはそんな町だった。

物珍しげに建物を見回し、大通りを歩き、すれ違う人々を観察する。
同じ雰囲気を持った物は、人は、いない。皆が皆、独自の文化と雰囲気をもって生きているようだった。
そして、何故か通りを歩く人々が少年の方を哀れみの眼差しを持って見ていた。けれど少年は、それには気付いてはいなかった。
まるで自分の周りに自分だけの壁があるような。けれどここに住む人たちはひどく愛想良さ気に見える。

「おや……少年、君は旅人さん?」

不意にかけられた言葉。
驚いて振り向くと、そこには長い黒髪を緩く束ねた青年がいた。
黒髪に、黒い瞳、服までが真っ黒。その黒ずくめの細長い体躯は見る者に影のような印象を与える。
黒い目を細めて、愛想良さ気に笑っている。およそ、笑みを絶やすという事を知らないような人物に見えた。

「……そうだけど、何か用?」
「いや、自覚なしに此処に来て、それでいて見えるなんて、珍しい」
「見える、って……何が。何のこと」
「……分からなければ良いよ。直に分かるはずだ、直に」

いぶかしんで見上げる少年を気にもかけず、彼は手を差し出した。
ひょろりとした外見とは打って変わって、大きな手だった。
何も無いことを認めて、少年も、彼と比べれば随分と小さく見える手を差し出す。

「私は斎、と言う。この町に居座ってる者だよ。……君は」
「……嵩槻」
「嵩槻……変わった名前だね」
「僕が生まれた場所では、特に変わった名前じゃないよ」

そう、と言いながら斎と名乗った青年は空を見上げる。
視界一杯に広がる青が、暖かさと清々しさを見る者に与える。少し頭を巡らせれば、直ぐに太陽が目に付く。
眩しそうに目を細めて、斎は嵩槻の方へと視線を向けた。

「君はどこか行く当てがある?」
「……別に。寝る場所と、行く場所を探してるんだ」
「そう、なら、少し時間を割いてくれないかな」

何で、と聞きたかったが、それよりも先に斎は歩き出していた。
ついておいで、という声に仕方なくついて行く事にしたが、町のはずれに来る頃には、既に好奇心が勝っていた。

(こんな場所が……)

山、というには小さすぎる、少し大きな丘。恐らくその上に上れば、町全体を見下ろす事が出来るだろう。
人が踏み入った後も無い様子を見れば、ここはあまり知られていない場所なのだろう。
そんな場所を知っているのだから、斎はここで生まれたのだろうかと、そんな事をぼんやりと考えていた。

どちらかと言うと、旅をしたり剣を手に取ったりするよりも、書物に囲まれている方が似合いそうな青年は、何の苦も無く道なき道を登っていった。
その事に妙な引っ掛かりを覚えたが、嵩槻はあえてそれを無視した。
むしろ、慣れていて然りの嵩槻が苦労して登るほどの傾斜だったので、気にする暇が無かったと言うべきだろう。
足元には膝ほどまである草が伸び放題、頭上には高すぎる樹が鬱蒼と多い茂っている。
季節は春。とはいってももう下旬で、夏にだと言っても良い。
少し汗ばんだ額を上着の袖で拭って、少年は斎を見失わないように必死で登った。





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