4.

――驚愕。
彼は、這い登った丘のその景色、これ以上美しいものをその目で見たことは無いと思った。
ただの田舎の風景だったのだけれども、それでも、目を逸らせないほどの、秘めた美しさがそこにはあった。
自分の汚れた目で見てはいけないと、そう思うほど、それは不可思議で妙に頭に響く風景だった。

けれど、彼は気付いてしまった。
美しい風景の中、色とりどりの集積体の集まりの中には、少しの隙間も無かった。
緻密に、厳密に重ね上げられたそのガラクタの空間は閉ざされている。
彼のために開いている場所は、彼のために光を投げかけてくれる隙間は、そこには一つも無かった。
今までと、そして恐らくこれからと同じように。

気付いた瞬間、目に映る風景はただの風景でしかなくなってしまった。
今まで幾多と無く見てきた、果てしなく、閉じた風景。
美しい風景を創り上げている物はもう、彼の目には雑然と積み上げられたガラクタにしか映らなかった。

ただずっと、探してきた物を、ひとかけらも見出すことが出来なかった。
少年は過去母親に捨てられて以来、居場所を探してきた。温かい家と、自分を必要としてくれる誰かを。
自分がいることの出来る繋がりを、何処かをこの町に探しに来ていた。
……そうして、此処にもそんなものが無かった事に気付く。

失望したのは、何度目だろう。
期待が大きければ大きいほど、それを裏切られた時の失望は大きくなる。
少年の心は、もう失望に対して何の恐れも抱かない――むしろ、失望に対して備えるようになってしまっていた。
薄々気づいていたのかもしれない。探すだけではどうにもならない、自分で何かをしないとどうにもならないと。
根無し草で旅をして、たどり着いた町で居場所を見つけられるなんて、そんな虫のいい話は無いのかもしれない。

「……人は、自分がこう生きようと思う理想像が無いのに、他人がこうすれば良いと思う理想像があるなんて」

憎い。自分を捨てた、もう顔も声も思い出せない母親が。何故なのか、理由も言わなかった母親が。
吐き捨てた言葉は、果たして言葉になっただろうか。
しかし隣にいた者は美しい――嵩槻にはもう意味の無い――風景に目もくれず、ただ少年の言葉を聞き拾っていた。

「人は他人の真似事をして成長する。善い人が近くに居るほど、真似した者は善い人間になるんだよ」

その言葉は意味も持たず嵩槻の頭に滑り込んで、思考をかき乱してその隅にも留まらずに去っていった。
……忌々しい。何故こんな。
いつも一人だった少年の脇には、名すら覚えていない青年がいる。
人と関わり合う事を極力避けてきた彼にとっては邪魔なだけの人間。信じるに足る人間なのかどうか判別することさえも、もう飽きてしまった。

「じゃあ……僕は最悪の人間だね、真似する奴がいなかったから」
「それは、無いよ」

睨むようにして振り返った嵩槻の視線をさらりと受け流し、斎はただ自嘲するように笑った。

「人は必ず、誰かの真似事をしているんだよ。……でないと、喋ることさえままならないから」

嫌そうに顔を歪めた嵩槻に気付いたのか気付いていないのか、斎は空を見上げてくつくつと、さも可笑しそうに笑った。
空には灰色の雲が広がってきていた。空が完全に灰色に覆い尽くされるには、さほどの時間もかからないだろう。

「先ず、子供は親の真似をするね、普通は。親と子が似てるのは血の繋がりだけじゃない、歩みを共にするからだ」
「……共に歩もうとしない馬鹿も、時にはいる」

苦々しげに言った言葉は、だんだんと強くなってくる風の音に消されて、斎の耳には届かなかった。
ただ呟きのようなものだけが、嵩槻の頭の中に反響しただけだった。

「人はね、死んでからも夢を見るんだよ」
「死は終焉だよ。その先には何も無い」

体験したことなど無いが、それでも嵩槻は死に対しての確固とした考えを持っていた。
死んでからもまだ先があるなんて。
たった十五年の生を果てしなく長いと感じてきた嵩槻にとって、それは恐れにも近い事だった。
くつくつと笑いながら、斎は嵩槻を見る。辺りが薄暗くなるにしたがって、影の落ちたその笑顔は何か不自然に見える。

「この世界は、現実と呼ばれる此処は、死者が見る夢。……皆、本当は死んでいるんだよ。そうだと意識していないだけで」
「……ありえない。僕達は、生きてるよ」
「この現実こそが夢で、この世界で死ねば夢が覚めるんだ。……死者は、夢を見る。生々しいほど現実的な夢を」

言葉が、世界が、全てが混乱する。まるで魔術師のように彼は言葉を操る。魔術師の武器は言葉だと、誰かに聞いた気がする。
死後の世界などありえるのだろうか。この広く厳しい現実が、死者の見る夢などという事がありえるのだろうか。

「……ありえない」

ただ、同じ言葉を繰り返す。それ以外には言葉は思いつかなかった。
これ以上無いほど苦い表情をした嵩槻の方を見もせず、美しい風景を眺めたまま、斎は言葉を紡ぎだす。
同じ言語のはずなのに、不思議な言葉を紡ぐ彼は、さながら魔術師の様に見える。

「死者は勝手に夢を創り上げる……だから、この町には規則も何も無い」
「………。」
「全ての国の、町の、村の、最終的に行き着く場所だから」

町の、規則も何も無い異質な雰囲気を見た後では、妙に説得力のある言葉。
一瞬信じかけそうになった言葉を、無理やり引き戻す。
……ありえない。




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