6.
「まだ、分からない?」
そう言う斎の顔には、もう笑顔は浮かんでいない。
彼の言葉の意味が分からず、首を傾げていた嵩槻の前に、どこに持っていたのか、剣が差し出された。
鞘走らないようにか、柄と鞘の境辺りに布と紐が何十にも巻かれている。
これでは、いざという時に抜刀できないから、あまり使われていないのだと言うことくらいは想像がつく。
柄に細かな装飾の施された、飾り物のような細剣。
差し出されたそれは、物ならば必ず伝わってくるはずの何かを省いて、ひどく無愛想に見えた。
何も語らない、語ろうとしないその剣。
お喋りな物たち≠ニ違って、固く口を閉ざしているそれに、嵩槻はこれ以上無いほどの嫌悪感を覚えた。
……吐き気がする。気持ち悪い。
「……何」
「自分の居場所を見つけたいならね、ここで心の臓を一突きしてしまえば良い事」
一瞬、嵩槻には剣を持つ青年が悪魔か何かのように見えた。
おぞましい、浅ましい。彼を罵倒する言葉は無尽蔵にいくつでも浮かべることが出来た。
「僕に……僕に死ねって?」
考えたことも無かった未来。
死という言葉は嵩槻の思考の中には存在しなかった。
親に、世界に、信頼していた物に裏切られた彼は、ただ貪欲に生きていくことを選んだ。
「いや、此方に来ないかと、誘ったんだ。其方でなく、此方へね」
「……此方」
彼と自分の間には、背の違いがあるとはいえ、たかだか数歩の距離しかなかった。
此方、其方。立つ場所が数歩違うだけで変わる何かが存在しているのだろうか。
……分からない。
「死人の世界、死者の世界。……俗世で言われるほど悪い世界ではない」
分からない。彼の言葉も、自分の思いも、全て。
渦巻く気持ちの葛藤に、嵩槻の思考は完全にその動きを止めてしまっていた。
「…………死者」
「この町は、救われなかった者、居場所を見つけられなかった者、そして夢を諦めた者が辿り着く」
斎の言葉はするり、と嵩槻の思考に入り込んで、そしてそれを掻き乱して、嵐のように抜けていった。
止まってしまった思考では、何も考えることが出来なかった。
唐突に思いついた言葉が、考えもせず口から付いて出てくるのみ。
「何て……」
変な町、と言ったはずの言葉は空気を揺るがす事無く、直接自分の頭に反響して聞こえてきた。
まるで耳が、口が、体が無くなってしまった様な浮遊感。何かを落としてきた様な妙な喪失感。
何も語らなかった剣から、何かが伝わってくる気がする。
聞きたくない。けれど少年の意思に反して、剣は言葉を紡いでいった。
その美しい外見とは裏腹に、細剣は禍々しく残酷な戦果の記憶を語っていく。
赤色の空に、血の海。響くのは悲鳴と金属音。視界に映るのは燃え盛る火。砂塵。
そして親を無くした子供の悲痛な叫び。
それさえも、異常な静寂の中響き渡る爆発音によってかき消される。
寄る辺が無いと言う苦しみは、少年もよく分かっていた。
……なんて馬鹿な、無意味な火なんだろう。
火は人を殺すためじゃない。人を暖めるためにあるのに。
鏡のようなその剣。
まるでそれが今までにあったこと全てを記憶して、少年に見せ付けているかのような。
少年は思考の隅で占い師の扱う水鏡か水晶玉のようなものかと思った。
「実はね、私の夢は、君のように色々な場所を見て回って、世界を知ることだったんだよ」
斎のその言葉に、ただ嵩槻は皮肉気に顔を歪めた。
嘲りとも嘲笑とも取れるそれは、少年の顔にはそぐわない。
「そんな……僕のやっていることはあなたの思うほど楽な事じゃない」
そう、言った。……はずだ。
自分では言ったはずの言葉が、何となしに頭の中に響いてくる。
奇妙な浮遊感と喪失感が、纏わりついて離れない。思考は、未だに回転を止めてしまっている。
嵩槻はもう、無理に頭を動かすことを諦めていた。ただ思いついた事をそのまま口にしているだけ。
「戦ほど辛いものは無いよ、何と比べるにしてもね」
そう言った斎の表情を、見ることが出来ない。
声の調子からしておそらく、笑っているのだろう。苦々しげに。
けれど嵩槻の視界はもう、人と町と空の輪郭がぼやけ、交じり合って、それと判断することが出来ないくらい歪んでいた。
「戦は人から全てを奪う。……家も、故郷も、人を殺すことに対する抵抗も……命でさえも」
その場に立っていられない。あんなに走り通した足は、今や折れそうに脆い。
それどころか、自分が立っているのかどうか判然としない。
まるで足が溶けて、水のように何処かへ流れていってしまったようだった。
「……もう、気付いているだろう?この町が、私が、見えると言うことはどういう事なのか」
何を、と言ったはずの言葉は音にならず、頭の中にさえ響いてこなかった。
ただそこで、もう感覚の無くなった体から何かが抜けた気がしただけだった。
黒に支配されつつある視界の隅で、一人の旅人が家をすり抜けるのを見た。――何の変哲も無い煉瓦で造られた家の壁を、すり抜けるのを。
まるでそこに家が無いかのように、憮然とした面持ちで、歩を進めている旅人。
……彼には見えていないのだ。嵩槻にも斎にも同じように見えている、家も、店も、人も。
一介の旅人には見ることも触れることも出来ない異質の町が目の前に広がっていた事に気付いて、喪失感に苛まれていた体が恐怖に似た悪寒を覚えて総毛立った。
そして瞬間的に悟った。いや、思い出したと言ったほうが正確なのかもしれない。
自分の過去を。
そしてやっと、悟った。
この七年間、どの町に行っても誰も話し掛けてもくれなかったこと。自分が話し掛けても誰も返答をしてくれなかったこと。
まるで、無いもののように扱われていたこと。……自分が居場所を探していたこと。
「君は此方の人間だから」
必死で捕らえていた意識は、しかし嵩槻の意思に反して、指の間をすり抜けて離れていってしまった。
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